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日野宿本陣の江戸時代のころ

日野宿本陣復元図より

日野宿本陣復元図

日野宿本陣復元図

江戸時代、甲州道中日野宿の中程、中宿には本陣、脇本陣が軒を連ねていた。
2軒は日野本郷の名主と日野宿問屋を兼帯し、西が本陣の佐藤隼人家(通称上佐藤家)、東が脇本陣の佐藤彦右衛門(通称下佐藤家)であった。この建物は旧脇本陣の下佐藤家住宅であった。
両家間は現在塀が設けられ、敷地を区分しているが、当時は仕切りはなく、自由に行き来ができ、街道沿いに両家の長屋門が並び建っていたといわれる。

嘉永2年(1849年)正月18日、本陣や問屋場のあった宿の中心、中宿北側から出火した火災は北風に煽(あお)られて本陣、脇本陣をはじめ十余軒を焼く大火となった。本建物は大火の時の佐藤家当主彦五郎俊正が十分な準備期間をおいて普請(ふしん)したものであり、口伝(くでん)によると10年にも及ぶ歳月を費やして竣工(しゅんこう)したと言われる。文久3年(1863年)4月15日に上棟し、元治元年(1864年)11月にはほぼ完成したようで、同月23日に本宅への家移りの祝儀を行い、同年12月28日に家内一同が実際に家移りしている。

現在の建物は左土間、多間取りの主屋で、上屋桁行(けたゆき)、梁間(はりま)は11間4尺×5間で、北面中央に2間×1.5間の入母屋屋根の式台、北面、東面、西面に3尺の下屋、南面に4尺の下屋が付く。創建当初は更に南に12.5畳の上段の間と10畳の御前の間の二間があった。その二間は明治26年(1893年)の大火により主屋が消失した佐藤彦五郎四男彦吉の養子先の有山家へ曳屋(ひきや)され、現在に至っている。その際に当初の間取りを若干変更して現在の間取りとなった。(有山家は現在公開しておりません。)

屋根は切妻瓦葺(きりづまかわらぶき)で、「本陣」としての格式を漂わせている。土間と床上は約2.5尺(約76cm)あり、床は一般民家と比べると高い位置にある。
当家を訪れた大名等の身分の高い人々は、式台から上がって玄関の間、廊下と進み、右へ折れ、中廊下へ出て南へ向かい、下の間、中の間、御前の間を経て、最上段の上段の間へ行き、休息、宿泊したと思われる。玄関の間、廊下は、広間境、控えの間境及び廊下正面を板戸とし、廻りの部屋との区分を明確にもたせている。
手前の中の間、下の間は控えの間で、更に北の控えの間6畳2間は供者(とものもの)が控えていたと推測される。
北廊下の西の突きあたり、控えの間2間の西は供者が使用する雪隠(せっちん):便所が付く。上段の間の裏は、身分の高い人が使用する風呂及び上雪隠が付いていたと推測される。

長屋門は大正15年(1926年)の大火で被害にあったが、門通路部分の親柱、大扉、潜り戸が辛うじて火災の被害から逃れ、現在その門通路部分のみが移築され、街道沿いに冠木門(かぶきもん)として残されている。
日野宿本陣は、棟札により建築年代、建築時の当主、大工棟梁(とうりょう)等が明らかであり、数度の増改築等を経ているが、改修の記録や資料が良く残されていること、上段の間と御前の間の部分が現存することから、創建時の本陣の形に復原することが可能である。瓦葺の建ちの高い大屋根と入母屋玄関をもち、本陣建築として意匠的に優れているのみならず、小屋組は和小屋組で、京呂組を多用しており、土台を側廻り等に廻すなど江戸時代末期の建築構法を知る上で重要である。

甲州道中日野宿の問屋、「本陣」、日野本郷名主家の風格を備えた遺構として、日野宿、甲州道中の歴史を知る上で重要であり、都内唯一の「本陣」建築としてその歴史的価値が高い建物である。

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